残業レコード

あるサラリーマンライダーの栄光と苦悩の記録

オイル漏れはつづくよどこまでも

少し前から僕のバイクはオイル漏れが止まらない。こうなってしまったのは、古いからとかそういう理由ではなく、完全に僕の失敗が招いた結果である。

僕のバイクはオイルフィルターを交換ためにエンジン下部のオイルパンという蓋みないなものを外す必要がある。超めんどい。超めんどいけど、フィルター交換のたびにバイク屋まで行くのも億劫なので、自分でやることもある。

はじめてフィルター交換を試みたとき、オイルパンを外す際に変な力が加わってボルト孔の辺りをいわしてしまったようだ。それ以来ゆっくりとオイルが漏れて駐車場を汚している。

(写真にモザイクをかけているのは、隣のスペースで卑猥なことが行われているからとかではなく、隣人のプライバシーを守るためだ。)

なんとかしなきゃなあと思いながらも、液体ガスケットをボルトの周りに塗りたくってごまかしながら冬の間は乗っていた。

最近は外出自粛でツーリングに出かけるのも微妙な空気が漂っている。自分が無症状の感染者かもしれないと思うと身動きが取りづらくなってしまう。今は我慢のときなのかもしれないが、この騒ぎが落ち着いたらまたいろんな場所を走りにいきたいものだ。

そうだ。どうせ外出できないのなら、この期間を利用してオイル漏れをちゃんと治してしまおう。そう思い立って部屋を出る。

駐車場に舞い込んだ桜の花びらが真っ黒なスファルトをまだら模様に彩っていた。そういえば、あの事件が起きたのも零れ桜の綺麗な季節だった。

◆◆◆

もう何年も前の4月のはじめ。僕が社会人になって最初の赴任先は神戸だった。訳のわからないまま神戸市内の独身寮に引っ越してきたわけだが、当時の僕はこれから待ち受ける仕事と新しい生活に胸を膨らませ、とにかく前向きな心持ちだった。もしかすると、寮の玄関で僕を迎えてくれた朝桜が、そんな気分にさせていたのかもしれない。

寮はエリア分けされていたものの男女混合で、同期も何人か入寮していたこともあり、ここから社内恋愛が始まったりするんじゃないかなんてピンク色の期待を抱いていたりしたものである。

そんな気持ちとは裏腹に、季節の変わり目のせいか、慣れない環境のせいか、僕は入社して早々に胃腸風邪にかかってしまった。幸いウィルス性のものではなかったのだが、念のためと、寮の中の隔離部屋のようなところで過ごすことになってしまった。

せっかくの週末も、部屋とトイレの往復をひたすら繰り返した。なんなら、油断してちょっとだけ漏らしたりもした。ちょっとだけね。

◆◆◆

オイル漏れの対処法についてネットを徘徊して調べていると、配管工事で漏水対策としてボルトに巻くシールテープで止めることができた、という事例を発見した。

調べてみるとめちゃくちゃ安いし、ホームセンターの水まわりコーナーなんかでも買えるようである。

通販で手に入れたシールテープはこんな感じ。100円もしないのでうまくいかなくても、全然ダメージはない。フライパンとかでよく聞くテフロンという材料でできているらしい。なんか凄そう。

この製品、シールといいながらもペタっと貼りつくわけではなく、巻きつけて密着させるような使い方をするらしい。なんだか小さなトイレットペーパーみたいにも見える。

◆◆◆

腹痛との戦いは数日間に及んだ。それはもう寮のトイレットペーパーのストックを喰い潰すほどの勢いだった。

それでも、なんとか日曜の夜には体調も回復してきて、明日には仕事に戻れそうな状態にまで持ち直してきていた。トイレの頻度もだいぶ落ち着いた。

明日に向けて何か栄養でも取ろうとコンビニに軽食を買いに行くために寮の階段を降りる。1階の談話室では同期がちょっとした宴会を開いていた。女の子もいてすごく楽しそうだ。

なんだか自分だけ輪の中から漏れ出してしまったようで虚しい。だけど、この状態でお酒を飲むのはどう考えてもしんどい。僕はみんなの笑い声を横目に寂しく外のコンビニに向かった。

◆◆◆

患部のボルトを外してとにかくシールテープを巻きつけてみる。

どのくらい巻くものなのかよく分からないのでグルグル巻きである。ちなみに、ネジの締め込み方向に巻きつけると、締め込むときにめくれてしまうので、締め込み方向とは逆向きに巻く必要がある。

準備ができたらシールテープを巻いたボルトを問題のボルト孔にねじ込む。しばらく眺めてみた感じではオイル漏れは止まった?ように見える。

念のために翌朝になって様子を見てみると、残念ながらオイルが数滴アスコンの上に落ちていた。

ボルト孔が原因ではないのだろうか。本当の原因を探る必要がある。オイル漏れとの戦いはそう簡単には終わらないみたいだ。

◆◆◆

コンビニでパンを買ってきて寮の前の桜の木の下をとぼとぼと歩いていると、突き刺すような痛みが僕の腹の奥の方を襲った。そうだ、ヤツとの戦いはそう簡単には終わらない。

僕はすかさず少し内股になって肛門に横方向の圧縮力をかける。さらに小股での歩行により前後方向の荷重の抜けを最小限に抑えつつ、1階のトイレへと歩みを進める。ニーグリップで鍛え抜かれた僕の内転筋を持ってしても持ち堪えられる時間はわずかである。

幸いトイレは無人で、僕はトイレに小股で駆け込み大慌てでズボンを下ろして、便器に腰かけると同時に圧縮力を解放する。

痛みこそ激しかったものの、ろくに食べれずにポカリスウェットばかり飲んでいたためか、無色無臭の液体が肛門から噴き出るだけであった。音はシャーッである。お腹の弱いnoteユーザーの皆さんも経験あると思うが、激しく腹を下すと大抵こういった状態になる。

とにかく、同僚たちの前でシャビシャビのウンコを漏らして人間の尊厳を失うことを避けることができた。そう安心して僕がひとしきり尻を拭いて便座から立ち上がろうとしたそのときだった。トイレに併設された共用の洗面スペースに男女2人が会話しながら入ってきた。どうやら同期の奴らが宴会で使ったコップか何かを洗いにきたようだ。

トイレの個室から出てくるところを女子に見られるのがなんだか恥ずかしい気がして、僕はそいつらが用事を済ませて出ていくのを息を潜めて待つことにした。個室のドアは赤とか青の表示が無いタイプだから誰かが入っているのか入っていないのか分からないはずだし、まだ流していない下痢は幸いにも無臭タイプだったので、おそらくやり過ごすことができるはずだ。

僕の気持ちも知らずに、コップを洗いにきた同期の男女はなんだか楽しそうに話しており、なかなか出て行く気配がない。なんかちょっとイチャついてるくらいだ。クソッ。

そうこうしているうちに、腹の奥底からキリキリとした痛みが舞い戻ってきた。奴らの十八番、波状攻撃のはじまりだ。

イチャついてる同期の誰かよ、既に壊れかけの僕の肛門が第二波に破壊される前に、さっさと出て行ってくれ。

◆◆◆

てっきり肛門、もといボルト孔をダメにしちゃったのかと思っていたわけだが、違うようだ。ボルト孔付近をしっかり拭き取ってじいっと観察を続けてみると、どうやらボルト孔の横の小さな亀裂からオイルが漏れ出しているようだ。

液体ガスケットや多用途接着剤を亀裂の上のあたりに塗りたくってみても、ちゃんと固まるまでにオイルが出てこようとして道を作ってしまうらしくうまくいかない。

ということで、仕方がないので今度はオイルパンを取り外して、なんとかしてこの亀裂を塞いでみることにした。前回失敗しているだけに、オイルパンの取り外しは慎重にいかねばなるまい。ちょっとしたスリルを感じる。

◆◆◆

今にも暴発しそうな下腹部を押さえながら僕は祈った。早く出て行ってくれ。僕の、僕の肛門が張り裂ける前に。

一瞬、男女の会話が途切れて静寂な時間が訪れた。まるで、世界が突然息を止めたように静寂な時間がトイレを包む。

その次の瞬間だった。コップを洗っていたはずの男女が僕の隣の個室に雪崩れ込んできた。

そう。めっちゃキスしはじめたのである。しかもこのサウンド、バッキバキのベロチューだ。

腹痛に悶える僕の横で、ベロチューは激しさを増していく。

「ハァ、ハァ、、、ダメだよ、ユウくん。」

少し低い声の女が吐息を漏らしながら言った。

「スリルあるだろ・・・。」

ユウくんはハァハァ女にそう言ったが、この空間で一番スリルを感じていたのは間違いなく僕である。

ベロチューに呼応するように激しさを増していく腹痛に悶えながら、僕は全力で思考を巡らせた。もしこのままおっぱじまったら、ユウくんがかなりの早漏でも数分、遅漏もしくはフルコースで展開された場合には数十分に及ぶ可能性すらある。

冷や汗が体を伝う。誰がどう考えたって、ユウくんより僕が漏らすのが先じゃないか。永遠に続くかのようなベロチューの音の中、ドス黒い絶望感が僕の思考と肛門を支配していく。

ゲームオーバーだ。あきらめて僕が肛門に降り注いでいた力を解き放とうとしたそのとき、ガチャリとドアの開く音がした。

ハァハァ女が興奮するユウくんをなだめて二人で隣の個室から出て行ったのだ。第二ステージはユウくんの部屋で、ということだろうか。

二人の足音が遠のいていく。何故だか少し残念な気がしたけど、永遠にも感じられた我慢の戦いは終わったんだ。僕は僕の中の全ての力を解放した。

それはベロチューより気持ち良い瞬間だったかもしれない。

(これが、後に「下痢横ベロチュー事件」と呼ばれる出来事の一部始終である。) 

◆◆◆

簡易ジャッキを使ってパンを支えた状態で、対角に少しずつボルトを緩める。すべてのボルトが外れたらパンを手で支えつつジャッキを下ろす。今度はうまく外せたみたいだ。

オイルパンを外すとこんな感じで、フィルターが内側からしかアクセスできない。なんでこんな仕組みなんだろう。

ひとしきりオイルパンの掃除が終わったら、亀裂を塞ぐためにコイツを使ってみる。

耐熱のパテで金属にもいけるとのこと。パッケージの写真的に配管の穴とかを塞ぐものっぽいが、まぁなんとか使えるのではないだろうか。

パテの塊を少しもぎって、よく練り合わせる。そんなにすぐには硬くならないので、焦らずに亀裂の上に押しつけるようにパテを塗り込む。ボルトを締めるのに邪魔にならない程度に整形してこんな具合に仕上がった。

色がグレーなので意外と目立たない。液体ガスケットのグチャグチャした感じと違っていい感じだ。念のためにこのまま1日置いて、パテがしっかり固まるのを待つことにする。

翌日。パンを付け直してオイルを規定量入れたら、暖機運転をして漏れが止まっているかを確認する。エンジンが暖まるとオイルの粘度が下がって漏れてきやすい。

空冷のシリンダーヘッドが直接触れないくらい熱くなるのが暖気の目安。アイドリングしたまましばらく放置して様子を見てみる。どうやらうまくいったようで、エンジンをしばらく回すとジワジワと染み出してきていたオイルの姿はもうそこにはなかった。

外出自粛のこのご時世、愛車のメンテナンスに時間をかけるのも良いかもしれない。僕も気合を入れた洗車や、いつまでも合わないキャブレターの調整、調子の悪いブレーキランプの修理などやってみようと思っている。

長い我慢が終わったら、すぐにでも走り出せるように。

◆◆◆epilogue

少し前に関西に出張した折、下痢横ベロチュー事件の重要参考人であるユウくんが、家族とともに住む賃貸マンションに招待してくれた。ちょっと駅から歩くけど、なかなか広い部屋で、トイレもすごく綺麗だ。

料理を囲んで缶ビールを開ければ、一緒に寮に住んでた頃の昔話に花が咲く。仕事への不安や期待を共有した同期の友人とはいいものである。

酔っぱらったユウくんはキスよりハグ派とほざいていたけど、これに関してはマジでふざけんなって感じだ。

同期の中でも早いうちに結婚したユウくんは一家の主として随分とたくましくなったように見えた。少し低い声の奥さんも、ちょっとだけおしゃべりをするようになった子どもも、ユウくんを信頼していることが伝わってきて、何故だか僕は嬉しくなった。

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものである。名古屋に帰る終電に乗るため、また来るよと言って僕はユウくん宅を後にした。

今の世の中は我慢ばかりで気が滅入ってしまうかもしれない。お前に何がわかるんだと言う人もいるかもしれない。だけど、この我慢の後には、いつかきっと素晴らしい瞬間が訪れるはずだ。

駅までの夜道を早桜がぼんやりと照らしていた。この花がこんなにも美しく感じられるのは、長く厳しい冬の終わりを僕たちに知らせてくれるからなのかもしれない。

千鳥足のままふと後ろを振り返る。ユウくんの部屋からは柔らかな灯りと温かな笑い声が漏れ出していた。幸せな光と音が、いつまでもあの部屋から溢れつづけることを小さく祈って、僕は神戸の街を後にした。